2019年1月5日土曜日

伊藤整『火の鳥』

イギリス人の父と日本人の母親の間に生まれた主人公の生島エミ子は田島先生の主宰する薔薇座の看板女優である。純粋演劇と実験劇場である薔薇座の中での関係に翻弄され、また大きな影響を与える一方、エミ子は映画や左翼演劇とも関わる。そこで出会った男たちとの交際を通して、愛欲や自分の中の女性性を自覚し、さらには自分と藝術との関係を更新してゆく。


というわけなのだが徹頭徹尾自我の意識が強く、また先輩女優や演劇・映画関係者からの時に冷たい視線、そして魅力的な自分への男たちの好色な視線もしっかり自覚しつつ、それをエネルギーにして、というより貪り食って利用し、一方でしばしば傷つき、という格闘、これがすごい。そして単に人間関係の中で格闘するだけでなく、その格闘によって藝術としての演劇に活かしていこうとするそのバイタリティが強い。

しかし藝術としての演劇はエミ子にとって単なる到達地点ではない。それは劇団の他の者たちが神棚に捧げるようにしてありがたがっている藝術という観念を、自分の手で掴み取ろう、喉元に食らいついてやろう、そしてその正体を見てやろうという力強い、主体的な態度である。男たちに求められ、それに応じ、傷つきながらもさらに求めてしまうのと同じように、というよりも男たちとの関係も、自分の中の女性性も、支配されなければ支配されてしまうというように見える。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/181732462508/私は型どおり大都劇場の廣い舞臺でワーリャの役をしていたけれども大鳥さんや笛子さ

この徹底した自我と世界との関わり、あるいは藝術への愛憎とでもいうべき感情ということで、解説の瀬沼茂樹は本作をサマセット・モーム『劇場』と対比しているけれど、そしてわたしはこれを読んだことはないけれど、どちらかというとジョイス『若い藝術家の肖像』の影響を感じる。ジョイス研究者としての伊藤整というのがもちろんあるわけだが。

また伊藤と同様にジョイスの影響を強く受けていた福永武彦『海市』も、藝術家小説ということでは連想される作品だ。こちらのほうが少し甘口であろうか。