大江健三郎『美しいアナベル・リイ』を読みました。
単行本の時の題は『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』。この題は小説中にも引用される日夏耿之介訳のエドガー・アラン・ポーの詩から、あるいはポーの詩の日夏耿之介の訳から。この題のほうが良かったような気もするね。
そういえば小谷野トン先生のお弟子さん、じゃなかったかもしれないが、そういう大学院生だかで「図書館司書に『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』の「臈たし」が読めないつって怒っている人がいて、トン先生が「そんなに怒るほどのことじゃない」なんてことがあったのを思い出す。
閑話休題。
第四章「アナベル・リイ映画」無削除版のところ。
後期大江作品しか読んでいないんだけれど、戦後混乱期の父の死、祖母と母の活躍、父の弟子の暗躍、進駐軍との交際というのは幾度も、しかもそれぞれにずれた形で描かれ続けている。
そして実際、何があったのかよくわからない。かなりあからさまに描いているようでいて、はっきりしたところがわからない感じもある。四字熟語でいえば隔靴掻痒というやつ。
しかしその中のいくつかのイメージに共通しているのは、性的であり、暴力的である、あるいは何となくそれを伺わせるものであり、そのはっきりとは見えない霞がそれゆえに実にまがまがしい、はっきり見て確かめたいようでもあり、見たことでの確実な戦慄を予感させるため目を背けたくなるようでもあり……という感覚だ。
『取り替え子』での塙吾良・古義人とピーターももちろんそうだったね。
少しく畑違いでもありつつしかし文学と近接した藝術への誘いを受けるという、最近の大江作品。本作では映画のシナリオ。『憂い顔の童子』では安保反対運動を模した、あるいは祭祀化した演劇的アクティビティ。『さようなら、私の本よ!』では建築。
そういう活動の中で、愛媛の山の中での、懐かしくもあり、まがまがしくもある過去を見つめることになってプロジェクトは破綻していく。破綻していく中で、主人公は激しい暴力衝動を覚えて、ほとんど死に向かって、といって差し支えないような態度で没頭していく。
こういうところが最近大江が引くエドワード・サイードから受け継いだ「後期の仕事」のありようではあるのだろう。
それでも、以下のような引用部分はやはり楽しい。