2022年5月25日水曜日

絵本に纏わる

 今みたいにデジタル・ツールや幼児教育が昔以上に親しまれるようになっても、あるいはそれゆえになのかもしれないが、絵本にまつわる話というのは盛んである。流行っているといっていいのかどうか。

絵本の本懐は子供を楽しませることであって、子供の方を見てるふりして親に説教垂れるのも、自分の思想を子供に植え付けようとするのも、全てまとめてクソです https://twitter.com/dai_cha_man/status/1507202172030980098

絵本についてはいろんな功徳・効能があるといわれる。「絵本を読み聞かされたから、わたしのような駄目な大人になってしまった」という人はあまりいないから、基本的には読み聞かせの対象だった子どもや、そのあと一人で読んだり、弟妹や親戚の子や知り合いの子に読んでやったというような人が、ある程度の自己肯定感とともに語る議論ということになる。

それで、私には子どもはおらず、甥っ子姪っ子とは飛んだり跳ねたり歌を歌ったり変な顔をしたりして遊ぶことはあっても絵本の読み聞かせをする機会がなく、そういう立場で見ていると、何だか変な絵本というのもある。変な絵本作家もいるらしく、たまにTwitterなどで話題になる、批判を浴びている。

変な絵本作家については措くとして、変な絵本というのは、例えば登場するキャラクターがゆるキャラみたいなシンプルさがあり、小賢しいことを言ったりやったりする。漫画的キャラクターとでもいうべきか。漫画的というのは線的なデザインで、これは悪口でなく例に挙げるのだが、ミッフィーみたいなのの、質の低いようなのが描かれている。

こういうデザインのキャラクターは昔の絵本には珍しかったような気がしてい、しかし今調べたところミッフィーと呼ばれるあのうさぎは「ナインチェ・プラウス」という名前で、日本語名は「ふわふわ うさこちゃん」というそうで、『ミッフィーとおともだち』という、そういえば有名な絵本に出ていたからここでは不適切な例であったし、言いたい話、これもまあまあ言いたい話だったのだがもっと言いたい話があるから聞いてもらいたい。

引用ツイートに言うように、親が救われるために選ぶ、子どもに読ませるというのは、そういう機能を一概に、子ども教育の全面について否定できないにしても、やはり「違うよね」というものがある。

結果的にそういう機能はあるにせよ、親が救われるため、あるいは大人の都合・論理の絵本選び、教育選びというのは何かいびつな感じがする。すべて制御可能かのような、少し違うかもしれないが下手な婚活アプリの要素還元主義的な条件のよう。


長くなりましたから、本題はまた次。