2019年1月29日火曜日

アーナルデュル・インドリダソン著 柳沢由実子訳『声』

クリスマスシーズンで賑わうホテルの地下室で、一人の 男が殺された。ホテルの元ドアマンだった男は、サンタ クロースの扮装でめった刺しにされていた。捜査官エー レンデュルは調べを進めるうちに、被害者の驚愕の過去 を知る。一人の男の栄光、悲劇、転落.........死。その裏に 秘められた悲しい真実。全世界でシリーズ累計1000万部 突破。翻訳ミステリー大賞・読者賞をダブル受賞の傑作。[裏表紙より]

ほとんどすべてがホテル内から語られるクリスマス・ストーリー。

クリスマス・ストーリーらしい平和さとむごたらしさが共存していて、欧米のミステリーでは定番の、刑事の仕事の充実の犠牲としての家族の崩壊が本作にもあるのだが考えてみるとそういう分裂が際立って目立つのはクリスマスなのかもしれない。遊ぶ人と仕事をする人。他人の幸福と自分の不幸。楽しく生きている者と寂しく死んでいる者。

被害者はかつて天使のような美声をもつ神童として扱われた男で、その才能が喪われた瞬間から彼の人生は長すぎる余生となった。父親は彼を見放し、かつての聴衆は彼を嘲るようになった。

それで、でも彼もそうだし、主人公の刑事の娘もそうだが、奪われるということと奪うということが表裏一体というか、あるものを得ているときに他人を奪っているかもしれない。奪い返したからいいということにもならない。

だから他人に優しくしようということでもなくて、奪ったり奪われたりするもの、それが極めて偶然にというか気まぐれ的に振り分けられる。このむごさ。

ホテルの料理の描写は大変豪華。アイスランドを舞台とした登場人物の名前を覚えるのは大変だがとても良かった。


2019年1月28日月曜日

三島由紀夫『永すぎた春』

古本で手に入れて、なかなか読めずにいたが読んであまりの通俗っぷりに驚いた。今では古風すぎる作品で、文庫解説の十返肇が三島の藝術小説と関連づけて一生懸命褒めているのが苦笑を誘う。

 たとえばこんなところ。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/182366793943/折も折作者がこの物語の中で表立って登場させたことのない百子の兄が盲腸炎で入院する


ここで作者三島が登場するのがおもしろいし、別にモダーン文学の飛び道具としてやっているわけではない。昔はこういう手があったんだろうなというくらいで、なんだか他愛ないというか、まあ通俗な感じはする。

物語は若い男女がプラトニックな恋愛関係を続け、さまざまな障害が起こり、それでも破綻するほどではなくいつの間にか障害はなくなり、また別の、なんとか切り抜けられるんじゃねえかという程度の障害が発生し、という、飲んだり吐いたりというような、橋田壽賀子感のある筋である。

三島由紀夫入門としてふさわしい。とは絶対にいえないか。

2019年1月5日土曜日

伊藤整『火の鳥』

イギリス人の父と日本人の母親の間に生まれた主人公の生島エミ子は田島先生の主宰する薔薇座の看板女優である。純粋演劇と実験劇場である薔薇座の中での関係に翻弄され、また大きな影響を与える一方、エミ子は映画や左翼演劇とも関わる。そこで出会った男たちとの交際を通して、愛欲や自分の中の女性性を自覚し、さらには自分と藝術との関係を更新してゆく。


というわけなのだが徹頭徹尾自我の意識が強く、また先輩女優や演劇・映画関係者からの時に冷たい視線、そして魅力的な自分への男たちの好色な視線もしっかり自覚しつつ、それをエネルギーにして、というより貪り食って利用し、一方でしばしば傷つき、という格闘、これがすごい。そして単に人間関係の中で格闘するだけでなく、その格闘によって藝術としての演劇に活かしていこうとするそのバイタリティが強い。

しかし藝術としての演劇はエミ子にとって単なる到達地点ではない。それは劇団の他の者たちが神棚に捧げるようにしてありがたがっている藝術という観念を、自分の手で掴み取ろう、喉元に食らいついてやろう、そしてその正体を見てやろうという力強い、主体的な態度である。男たちに求められ、それに応じ、傷つきながらもさらに求めてしまうのと同じように、というよりも男たちとの関係も、自分の中の女性性も、支配されなければ支配されてしまうというように見える。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/181732462508/私は型どおり大都劇場の廣い舞臺でワーリャの役をしていたけれども大鳥さんや笛子さ

この徹底した自我と世界との関わり、あるいは藝術への愛憎とでもいうべき感情ということで、解説の瀬沼茂樹は本作をサマセット・モーム『劇場』と対比しているけれど、そしてわたしはこれを読んだことはないけれど、どちらかというとジョイス『若い藝術家の肖像』の影響を感じる。ジョイス研究者としての伊藤整というのがもちろんあるわけだが。

また伊藤と同様にジョイスの影響を強く受けていた福永武彦『海市』も、藝術家小説ということでは連想される作品だ。こちらのほうが少し甘口であろうか。