2016年1月22日金曜日

原点のまがまがしさ

大江健三郎『美しいアナベル・リイ』を読みました。

単行本の時の題は『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』。この題は小説中にも引用される日夏耿之介訳のエドガー・アラン・ポーの詩から、あるいはポーの詩の日夏耿之介の訳から。この題のほうが良かったような気もするね。

そういえば小谷野トン先生のお弟子さん、じゃなかったかもしれないが、そういう大学院生だかで「図書館司書に『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』の「臈たし」が読めないつって怒っている人がいて、トン先生が「そんなに怒るほどのことじゃない」なんてことがあったのを思い出す。

閑話休題。

第四章「アナベル・リイ映画」無削除版のところ。

後期大江作品しか読んでいないんだけれど、戦後混乱期の父の死、祖母と母の活躍、父の弟子の暗躍、進駐軍との交際というのは幾度も、しかもそれぞれにずれた形で描かれ続けている。

そして実際、何があったのかよくわからない。かなりあからさまに描いているようでいて、はっきりしたところがわからない感じもある。四字熟語でいえば隔靴掻痒というやつ。

しかしその中のいくつかのイメージに共通しているのは、性的であり、暴力的である、あるいは何となくそれを伺わせるものであり、そのはっきりとは見えない霞がそれゆえに実にまがまがしい、はっきり見て確かめたいようでもあり、見たことでの確実な戦慄を予感させるため目を背けたくなるようでもあり……という感覚だ。

『取り替え子』での塙吾良・古義人とピーターももちろんそうだったね。

少しく畑違いでもありつつしかし文学と近接した藝術への誘いを受けるという、最近の大江作品。本作では映画のシナリオ。『憂い顔の童子』では安保反対運動を模した、あるいは祭祀化した演劇的アクティビティ。『さようなら、私の本よ!』では建築。

そういう活動の中で、愛媛の山の中での、懐かしくもあり、まがまがしくもある過去を見つめることになってプロジェクトは破綻していく。破綻していく中で、主人公は激しい暴力衝動を覚えて、ほとんど死に向かって、といって差し支えないような態度で没頭していく。

こういうところが最近大江が引くエドワード・サイードから受け継いだ「後期の仕事」のありようではあるのだろう。

それでも、以下のような引用部分はやはり楽しい。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/137736180573/中略



http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/137736529278/私は小説の原稿について編集者から意味のあいまいさや語句の重複を指摘されることこそしばしばだがこれだ

http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/137737242403/私らは応接間に隣り合う黒ぐろとした板張りの食道で夕食をとった料理は柳夫人がとサクラさんはいっていた






2015年12月8日火曜日

俳優

ドラマを見ていて、井上ひさしの皮肉な定義についての筒井康隆の解説を思い起こすことが多い。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/134776099303/演劇事情に詳しい井上ひさしなど人間には三種類ある男性と女性とそして役者だと言ってためらわな

好きでもない人とキスをしたり、怒鳴られたり、首を絞められたり。

本当には殺さない、本当にはセックスしないということだろうけれど、でもこの場合の「本当には」の境界、「俳優にすら超させない」境界というのは何なのだろう。「本当にキスをする」、「本当に怒鳴る」、「本当に首を絞める」わけではある。

希望して俳優になる。その時にこの「非人間的労働環境」について同意をしたと見做されるのだろうか。そうであるとしれば人権が及ばない、少なくとも十全には実現できないのが俳優業という領域である。

それは報酬で補償されている?そうだろうか。

そして自然に、非人間的労働・非人権的環境というのが確かに他にもあって、それが一般に「希望」や「補償」によって、他者から「そういう仕事だから」と見做されている。


2015年11月5日木曜日

ずいぶん前の話だけれども『黒く濁る村』を見た。
監督: カン・ウソク
原作: ユン・テホ
脚本: チョン・ジウ
撮影: キム・ソンボク
音楽: チョ・ヨンウク
出演: パク・ヘイル ユ・ヘグク
チョン・ジェヨン 村長(チョン・ヨンドク刑事)
ユ・ジュンサン パク・ミヌク検事
ユソン イ・ヨンジ
ユ・ヘジン キム・ドクチョン
キム・サンホ チョン・ソンマン
キム・ジュンベ ハ・ソンギュ
ホ・ジュノ ユ・モクヒョン
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=337979


冒頭から題字まで、この作品も実に良い。『甘い人生』もそうだったけれど、韓国のエンタメ作品は「最初に
一気に引き込む」という勘所がわかっている。偉い。褒めちゃう。

宗教的カリスマと、彼を利用する者たちによって組織される村。「公共財」化される女。ここで、村は高度に機能化されている。

その必然的結果としてか、例えば家族とか仕事とかいったものはほとんど描かれない。奇妙なほどに村人たちも対立する主人公も「目的」の下に動いている。それはこの映画にとって「図式的」という弱みにもなっているし、一方で不気味さという点で貢献もしている。

機能や目的から解放された(初めて子どもや家族の姿が描かれる)ラストは、しかし意味深。

おもしろいけれども、そのあたりは物足りないといえば物足りないか。


それにしてもユソンちゃんは美しく、パク・ヘイル君はかわいらしい。


2015年10月28日水曜日

唐突だが、映画『甘い人生』(2005)を見た。
監督: キム・ジウン
プロデューサー: オ・ジョンワン
イ・ユジン
脚本: キム・ジウン
撮影: キム・ジヨン
音楽: ピーチ・プレゼンツ
出演: イ・ビョンホン ソヌ
シン・ミナ ヒス
キム・ヨンチョル カン社長
キム・レハ ムンスク
ファン・ジョンミン パク社長
エリック デグ
チン・グ ミング
オ・ダルス ミョング
キム・ヘゴン テウン
チョン・ユミ

 


序盤、題字までのスタイリッシュで完結な描写は見事で、冒頭高級レストランでデザートの味見をするイ・ビョンホン、そこからスタッフに呼ばれて悪漢をぶちのめすイ・ビョンホン、ボスに呼ばれて畑違いの仕事を頼まれるイ・ビョンホン、すべて素晴らしい。

 その後は、しかしどんどん減速してゆく。 何より「なぜそのボスにそこまで忠誠を誓うのか」がわからないのが一番の原因だ。この疑問のせいで、制作側のテンションとこちらのそれとの乖離が広がっていく。そういう感じがある。

 けれども、イ・ビョンホンというのは素晴らしくて、ぱっと見ると何かが足りない感じの、しかし見まごうことなきイケメンだ。でも何か足りない。無表情っぽい。 その欠落としての無表情を、演技で補完する。あるいは増幅する。 おちゃめなイ・ビョンホンは欠落を補完し、激情に駆られたイ・ビョンホンは欠落を増幅する。  本当に良くて、他にいないタイプだね。